一枚足りない


168 1 2006/07/26(水) 02:30:26 ID:+v+2R6iY0


私が勤めているレストランは厳しい事で有名で、ここ最近ではアルバイトが音を上げてすぐに休んでしまう状況にあった。
そのレストランはここらではなかなか名の知れたレストランであり、安くておいしい事で有名だった。
私はここに勤めてもう八年になる。正式に雇われているわけではなく、私もアルバイトに過ぎないのだが、最近では料理を作る事をずっと任されていた。

そんなある日、オーナーが腕のいいコックを雇った。どうやら正式に料理学校を卒業しているらしく、彼の技術は長年この店に勤めている私の腕を凌駕していた。
彼の腕はレストランの評判をますます上げ、今までコックとして働いてきた私はアルバイト不足のため新人と同じような雑用を任されるようになった。
私は久しぶりの雑用にもたついてしまい、以前ではしなかったような失敗をたびたびおかしてしまった。

ある日、私が皿洗いをしていると、お皿を一枚割ってしまった。その皿はお得意様によく使用される皿であり、高価なものだった。
私は恐れた。オーナーは厳しい人であり、バイト暦八年になる私ですら彼には頻繁に怒鳴られていた。
もし高価な皿を割ったなんて事が分かってしまったら首になるかもしれない。そう考えた私は皿を処分することを考えた。
大丈夫。まだたくさんある。一枚くらい無くなったって誰も気付いたりしない……。

私は割れたお皿の破片をちりとりの中に入れた。幸いにも店内はにぎわっていて、誰も私のミスに気付く人はいない。

お皿を店の中のゴミ箱に捨てるとばれてしまうかもしれないので、私は裏口から溝に破片を捨てようと考えていた。
裏口は路地裏に通じていて、ほとんどの人はここにドアがある事すら気づいたりしない。私にとってそれは最高の条件とも言えた。
私がちりとりを持って表に出ると、不意に誰かに呼ばれたような気がした。儚げな、女性の声だ。
私は声がした方を見た。そこではビルとビルにはさまれた狭い道が続いていて、奥の方は暗くて見えない。太陽の光が届いていないのだと、私は思った。
声は路地裏の奥から聞こえてきていた。


169 1 2006/07/26(水) 02:31:25 ID:+v+2R6iY0
狭いビルの隙間を私は呼び寄せられるようにして歩いて行った。
しばらく歩くと、目の前に石で出来た円形の物が見えてきた。近付いて見るとそれは井戸だと分かる。どうやら通路はそこで行き止まりのようだった。
「そうだ、この破片をここに捨てれば良い」私は井戸を見て閃いた。

井戸の底は暗い漆黒の闇で覆われていて、様子を見る事はできない。ただ、ひゅうひゅうと冷たい風が井戸の中から吹き上げてくるだけだった。
どうやらさっきの声の正体は、この風の音だったらしい。

私は井戸の中に割れた皿を捨てた。しばしの静寂の後、ポチャンと言う音が鳴る。どうやらまだ井戸の水は生きているらしかった。
私は店に戻るため、身を翻した。そろそろ店が本格的に混みだす時間帯だ。いなければ何かと怪しまれるかもしれない。
私が店に向かって歩きはじめるのと同時に、背後から声が聞こえた気がした。「………一枚」と。

その後も私はその井戸をたびたび活用した。皿を割ってしまうたびに、私はその井戸に破片を捨てに行った。
不思議な事に井戸からは破片を捨てるたびに声がした。「………二枚………三枚………四枚」と言うように。
一度井戸に向かって声をかけた事もあったが、当然のように返事はなかった。
不気味ではあったが、今の私には井戸が必要だった。


170 1 2006/07/26(水) 02:32:44 ID:+v+2R6iY0
しばらく日が経ち、私は昔の雑用の勘を取り戻して行った。ミスの数も減り、井戸に行く事もなくなった。
皿はずいぶんと割ったが、幸いな事にオーナーに見つかる事はなかった。
バイトの人数も徐々に増えて行き、私は昔のように料理を作る作業に戻った。コックの手伝いとしてではあるが。

そんな風にして日がたっていたある日、それは起こった。
新人のバイトの女の子がお皿を割ってしまったのだ。例の高価な皿だった。
新人の女の子は狼狽し、しまいには泣きだしてしまった。
私はその子の様子を見てかわいそうになってしまい、こう言った。
「大丈夫。私に任せときなさい」

私は新人に皿の破片を集めさせると、いつものように井戸に向かった。
初めて来た時と同じように、井戸はそこにあった。寂しげな風音を鳴らしながら。
私は井戸の中に、破片を捨てた。もうこれでお皿を捨てるのは最後にしようと思っていた。

171 1 2006/07/26(水) 02:33:30 ID:+v+2R6iY0
ポチャンと言う音が鳴り、私が井戸を後にしようとした時、私は自分の体が動かないことを知った。金縛りだった。
私が困惑していると、井戸の中からこれまでのように声が聞こえた。「………九枚」
井戸の中は相変わらず暗く、なにも見えなかった。ただ、井戸から聞こえる女性の声だけが井戸の中の様子を知らせてくれた。
不意に、再び井戸の中から声がした。いつもは起こり得ない現象だった。
「………一枚足りない」声は言った。

再び、井戸の中から声がした。
「一枚、二枚、三枚」声はまるで確認するかのように、皿の枚数を数えていく。心なしか、数えるお皿の枚数が増えるごとに声が近くなっている気がした。
「四枚、五枚、六枚」声は段々とはっきりしてくる「七枚、八枚」声は、井戸のすぐそこの暗闇からしていた。誰かがいるのは明白だった。
「九枚」

井戸から吹き上げてくる風が突然止んだ。

ぼぅ……と井戸から女性の顔が浮かび上がった。和服を来た女性だ。
彼女の顔はぐしょぐしょに腐っていて、おぞましいほどの異臭がしていた。
「一枚足りない」女性はそう言って私の腕をつかんだ。「一枚足りない」
やめて!私は叫ぼうとした。だが声が出ない。
「一枚足りない」女性は私を井戸に引きずり込む。「一枚足りない」
私はもがいた。だが体は動かなかった。
やがて私の体は井戸に吸い込まれ、暗い水の中に沈んで行った。